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清水義範『主な登場人物』

 パスティーシュというのはある事物を対象として例えばこれをaとする。で、ここからできるa'がパスティーシュなんだと思っている。事物は特定されるもののこともあれば、比較的一般化された観念がターゲットとなることもある。これらの小説を読むとき他の作品とは違っていることといえば、登場人物に感情移入することが無いことだろうか。基本的には執筆者も読者もこのaから距離を置いているからこそこういった作品が成り立つ訳だ。つまり、aとa'の間には任意の幅のマージンがあり、そのマージンに存在するのが批評というものなのだろう。
 そういう意味で言えば、例えばものごとを批評的に見る目を持たない人には何が面白いのかさっぱり分からない、なんてこともありうると思う。その前に、そういう人は本を読まないかも知れないけど。

 それぞれの作品について書こうと思ったのだけれどそれは追々。とりあえずのメモとしては、表題作の「主な登場人物」は正直、あまり面白くなかった。というのも、想像がかなり固定化されているためで、もっと飛躍しちゃって荒唐無稽にしてもいいんじゃないかと感じた。「近頃の若者は」とか「私は船戸川事件をこう見る」などを読むと「結局、自分を語りたいだけなんじゃん!」と突っ込みたくなる。まあ、ある肩書きの人に何か意見を聞くということは聞く段階である程度その人(または立場)なりの答えを期待している訳で、そういう意味では横綱審議会会長の高須が船戸川のことは置いておいて「大椰子は絶対に横綱にさせん!」と繰り返すのも当然のような気がしてきた。

 惜しいなあ、と思ったのは、ラストのくどさ。念には念を入れて説明しちゃってるお蔭で短編のすっきり感が消えてしまっているものが多い。「ここまで言わなくていいのに…」と感じるのだ。一番好きな終わり方は、「近頃の若者は」。このくらいの余韻の残し方がちょうどいいと思うのだけれど。

清水義範主な登場人物』(角川文庫・角川書店)
※残念ながら版元品切れ