MJ

「僕のスウィング」ASIN:B0000BH8H9

nijimu2003-02-22


 渋谷シネマライズにて。

 夏休みの期間おばあちゃんの家に来ているそばかすに茶色の髪のフランス人少年と、その地区に住むジプシー(「マヌーシュ」と呼ばれる)の大きな目の女の子との交流を描いた話。マヌーシュ・ギターに魅了されたマックスは、ギターを買おうとジプシーたちの住む地区へやってくるが、スウィングにぼろ同然のギターを「ギターの神様のものだ」と騙されて押しつけられる。その代わりギターの名手ミラルドに教えて貰えることになったが、それと引き替えに手紙を読み書きすることを頼まれる。マヌーシュたちは教育というものを受けないため、字の読み書きができないのだ。

 お屋敷街にある由緒正しい家に暮らすマックスと、貧しい建物やトレーラーで暮らすマヌーシュたちの対比。マヌーシュたちは貧しくはあるが音楽や仲間がある。仲間たちが集まってコンサートを始めるあたりはもう圧巻で、観ている方もマヌーシュ・スウィングに魅了されてしまう。とにかく楽しくてちょっぴり切ないメロディが身体の中にすんなり入ってくるというか。

 それと、スウィングが案内する「秘密の道」の楽しさ。泥んこになったり危ない場所を這い上ったりカヌーで川を下ったり。木々の緑と水の豊かさが観ていて気持ちいい。ただ、そんな中でも轟音とともに走り去る列車や河川の汚染(鱒が汚染されていて食べられない!)が描かれていたりして、この辺りが変わりゆく時代というのを見せているのかなあ、とも感じた。

 マヌーシュは、人が死ねばこの世には何も残さないという風習があり、実際にこの映画の中でも人が死に、トレーラーから大切なギターからが全て焼かれてしまう場面がある。私たちはよく「せめてもの思い出に」という名目で亡くなった人の身近なものを何か手元に残しておこうと思うのだけれど、それは定住している人間特有のメンタリティなのかも知れないと思った。

 ミラルドは「昔はあちらこちらを移動して回ったものだ。いつかまたそういう生活をしたい」と願うが、子どもたちはその気持ちを理解してくれないらしい。既に定着して暮らすことに慣れてしまった世代なのだろう。そういえば、最後近くの場面でスウィングの足下が映されるが、そこには死んでしまった人の靴があった。全て焼かれなければいけないのに、そこまでその人が好きだったのね」と曖昧に感じていたが、どうもこれはそうではなく、薄れゆく風習を象徴したものらしい。それと同じく、別れ際にマックスが贈った「マヌーシュたちとの日記」は、字が読めないスウィングには全く興味が無く道ばたに放り出されたままだ。そのうち、忘れ去られてそのまま風化していってしまうのだろう。この辺りも「民族間の断絶」ではなく、忘れ去られ消え去っていくマヌーシュ文化(折角文字化したものなのに!ということだ)の象徴だということで、思ったよりもずっとそういったメッセージが込められているものらしい。この辺りはマヌーシュやジプシーについて殆ど何も知らなかった私には映画だけでは理解できないことが多く、webやパンフレットの補助が無いと見逃していたことも多かった。映画だけで感じるのが本当は正しいことなのだろうけれど、こういった「素地となる知識」が無いものに関しては知る側の導きも必要なときがあるんだな、と改めて感じた。この映画を撮った監督トニー・ガトリフは、変わりゆくジプシーの問題を映像化してきた人なのだという。その辺のことをもう少し前勉強していけば、随分印象も変わったろうけれど、今回はこれで良かったのかな。

 そういう意味では、突然挿入される老女マンディーノの収容所体験の告白は目を引いた。そうか、ユダヤ人だけではなく、こういった「異分子」も粛正の対象だったんだな。

 少年が主人公ということもあって、マックスがスウィングに抱く淡い恋心(とまでも行かない、眩しさのようなもの)がとてもかわいらしい。あるところではスウィングは積極的になり、あるところでは無垢な子どもになる。その「ぶれ」が印象深かった。いや、スウィングが本当に美しいのです。あんなに強い目を持つ少女は、これからどんな風に成長していくのだろう、と想像してしまう。

 ラストに流れる"La Berceuse"は、少し前に別の映画でも流れてたような印象があるのだけれど、あれは錯覚かなあ。過去に観た映画リストでもピンとくるものが無いなあ。それとも、予告編と記憶が混同してたのかな?

 映画の中で絶えず流れている音楽がとても良かったので、これのサントラ盤(ASIN:B00006S29L)は買うことにした。