MJ

「アカルイミライ」

 渋谷シネ・アミューズにて。

 正直、この映画を観ようかどうしようか迷っていた。私のような年代は中途半端で、いわゆる「分かってくれない」と壁に突き当たることも「何でこんな事も分からないんだ。常識だろ」と苛立つこともあまり無い。その中間に立ち、「どっちも言うことは分かるよ」とは言いながらどちらにも違和感を持つという、優柔不断なコウモリのような存在だ。そんな年代の私が訳知り顔でこの映画について語るというのはどうも気恥ずかしく、かつおこがましいのではないかという躊躇がある。とりあえず、感じたことのメモをいくつか。

 この映画は、世代間の断絶を描いたものだろう。世間の常識の中で生き、訳知り顔の大人たち。そんな姿に嫌悪感を覚え、全く違った世界に住む若者たち。若者たちにとっては世間と交わらなければならないことはあくまでも「生きる糧」を得るため。現在にも未来にも希望はなく、淡々と毎日を送る。
 そんな中で唯一心を許せる相手が職場の先輩の守(浅野)。何かというとすぐにキレる雄二(オダギリ)に対して「これが"待て"でこれが"行け"だ」とサインを与える。そんな守るが雄二より先に「行った」。

 社会のどちらかと言えば下層に生きる人間模様とやり場のない苛立ち。もしかしたら死に一番近い人たちなのかも知れない。現世に希望も持てず、生きている意味を見いだせない。将来が良くなる気もしない。存在が希薄で親の世代から見ればじれったくて仕方ないだろう。

 そんな彼らを「少しでも分かろう」とする大人の世代だけれど、彼らは本当に理解しようとは思っていない。訳の分からないものは気持ちが悪いから、自分の分かる状態にしておきたいだけだ。つまりはコントロール可の状態にしておきたいということか?だからこそ、守と雄二が勤めるおしぼり工場の社長(笹野)は彼らの家に押しかけて自分なりに彼らと「交流」を図ってみたりもして「把握する」努力をしたりする。
 そのあたりは守の父親(藤)は既に「分からないものは分からない」と達観しているところがあり、一緒に仕事を始める雄二とは無言だがどこか親密な様子も窺えるの毎日を送る。それでも、ほんの時たまそれが爆発することがある。普通だったらそこでお互い本音のぶつかり合いがあり大団円になるところなのだろうが、この話はそのようなイベントはなく、やはり分からないもの、通じないものはそのままなのだ。この辺りにひどく苛立ちを感じる自分がいる。しかし、それをどうしようもないのが事実で、この辺りは監督自身もそうなのではないかとも思った。

 雄二の見せる異様な執着性や無頓着さはそのまま守が残していった赤クラゲの真水生息調教に集中される。確かに雄二がクラゲに偶然出会えたときは私も感動したが、その後の狂ったような行動はやはり分からないものだ。そういうのを見るにつけ、もしかしたら未来というのは自分が想像しているものとは全く違ったものになるのではないか、と感じる。そしてまた、私たちが感じる「明るさ」とその下の世代が感じる「明るさ」とは、全く別物なのでは無いか、とも。

 それと、守の父親がやっている商売が家電のリサイクル業であること、守たちの職場がおしぼり工場(つまりはおしぼりのリサイクル)だったことなどは、古い世代に属する彼らのひとつの立場の象徴なのだろう。ただし、おしぼりはリサイクルするごとに摩耗され、古くなっていくが、家電は再生されて以前とは別のくすみと輝きを得る。その辺りはふたりの男性たちのこれまた「違い」となるのだろうが。おしぼり工場社長夫人の白石マル美はなかなかいい味を出していた。すぐに死んでしまったのが勿体なかった。雄二の妹の小山田サユリや、守の父親の離婚した妻が引き取った息子・冬樹の、主人公たちとは全く別の、薄い膜のあちら側に生きる人たちとのコントラストも良かったし、登場人物がそれぞれ「活きて」いたと思う。

 赤クラゲは猛毒を持っている。それに触ろうとする雄二、止めようとする守。それを触ろうとする社長、それを敢えて止めない守。それと同じ位相として川に漂うクラゲに触ろうとする守の父親、それをあるところでは流し、しかしぎりぎりのところで必死になって止める雄二がある。この映画はこの手の記号が至る所に散在していて、正直、一回見ただけでは理解できないものも沢山あった。何度か見れば分かってくるものなのか、分からないのは私が鈍感だからなのか、それさえもよく分かっていない状態だ。

 メモと言ってるのに随分と長くなってしまった。