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イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』ASIN:4309462294

 河出書房新社が河出書房だった頃から出ていた『マルコ・ポーロの見えない都市』が、装いも新たに文庫で登場。私は、入手しづらかった時期にネット古書店で手に入れ、そのまま積ん読状態にしていたら復刊されたりして「こんなに苦労して集めてる私って!?」の状態だった。まあ、復刊された分も早々に版元品切れになり、ああ、これでまた暫く手に入らないのだなあ、と思っていたら、河出クラシック、やってくれました。あれほど探していた『柔らかい月』も手元にあるだなんて、何だか夢見たいっす。訳がまずいらしいけど、そういうのも実際に手に取って読めなきゃ分からないことだもんね。

マルコ・ポーロの見えない都市』を翻訳した米川良夫の手によるものだが、単行本の時から若干訳などを手直ししているらしい。後書きもこの物語を理解する手助けとなるはずなので、単行本を持っている人も再読する価値があると思う。

 さて、この『見えない都市』だが、各国を旅してきたヴェネチアの商人、マルコ・ポーロが、フビライ汗に今まで見てきた不思議な都市の様子を語る、という形態をとっている。しかし、その模様たるや「こんなところ、ある訳無いだろう」というような奇妙なところばかり。しかし、読み進めているうちに段々とそういう印象が薄れてくる。というのも、ひとつひとつの都市のどこかに、既視感が見え隠れするからだ。時には、懐かしい感情を抱いたり、「ああ、いかにもありそうだよな」と頷くところもある。また時には、あり得るはずもないそれらの都市が、その想像力である事象を抽象化したり別の姿として描いているものもあるのではないかと思わせる。その証拠かその結果か、それぞれの都市を語るマルコ・ポーロはどこか皮肉を交えた態度であり、諦念も見て取れる。これは、著者のカルヴィーノが世界に抱いている「想い」だったりするのだろうか。そういう気がしてならない。語られる都市都市はそれぞれがある面から見た我々の活きている世界に他ならず、地図上に無い筈のその都市にひどく存在感があるのは、そういう訳では無いか。

物語は、各章の前後にフビライ汗とマルコ・ポーロの問答で縁取られており、その間に短い、都市の話が数編挟まれる。各編のタイトルには通し番号が付けられているが、それらは番号順に並んでいる訳ではなく、また、五月雨式に登場するので、この辺に構造的な意味が何か隠れているのかな、とも思う。この辺りをちょっと図式化して整理して再読してみようかと思ってるのだけれど。

最後の章に挿入されている話は少し趣向が変わっているように思う。特に、「隠れた都市 2」は、パンドラの筺の「希望」を彷彿とさせる話にも思える。ということは、カルヴィーノはこの世界に対しては悲観的な態度をとっているが、しかし「希望」があると信じているからこそ、生きている、ということなのだろうか。