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山形浩生『たかがバロウズ本。』ISBN:4756330169

 最終章から後の補遺が思った以上に長く、しかも遊んでいたように思うのですが(笑)。以前の私の読書の仕方ではこの辺りに引っかかる可能性は殆ど無く、バロウズ自体も何となくSF作家だと思っていたところ、ブローティガンの本を読んでビート・ジェネレーションというものの位置づけをはっきり知り、やっとSF作家というよりはアメリカ現代作家といった方がより近いということにも気が付いた。たまたま、言ってることが「宇宙からの意志が(どうたらこうたら)」だったりするんでSFかなー、と思っていたらしい。

 とは言え、この本を読むと「ビート・ジェネレーション」という位置づけも正確なところではなく、バロウズという人はいろんなところのいろんなムーヴメントの中に「いた」人なのだということも分かってきた。

 フォロワーの形ではなく、その盛り上がりの時に「そこにいる」なんて、かっこいいなあ、というのが、後年の我々の見方だろう。そして、ドラッグに一時引きずり込まれながらも何とか這いずり出し、親の送金を受けながら自堕落な生活を送る。当時のいろんなジャンルの第一人者と交流があり、そんな無茶な生き方をした割には結構長生きしてたりする。スタイルはいつも三つ揃えに鍔付き帽子、スクエアフレームの眼鏡。そういった「分かり易い」キャラクターの裏にどんな人生があったのか、という、ひとつの見方と言えるだろう。普通だったらまず作品をいくつか読んで自分なりのその作家の印象を作ってからこのような本を読むべきなのだろうけれど、論理的な意味ではなく難解といわれるこの作家に限っては、その順番が逆になってもカンニングにはならないんじゃないかと思っている。

 で、これを読んでどう思ったかというと。

 おそらく、この作家の作品を精読するのは難しいだろうということ、しかし、いくつかは読んでみてもいいんじゃないかということ。この人の作品が敬遠されるのは、ひとつには「カットアップ」という手法を一時期ふんだんに使い、普通に読んだら意味の通る文にしようとする努力はいっさい無く、それどころか逆に「意味の通らない文章にしよう」と意気込んでいたところにあると思う。その「カッティング」の意図がどこにあったかといえば「この世は全て録音されたテープでできており、それを書き換えることによって自らの過去を変えることもできるのだ」というもの(つまりは妄想)。そこまで必死に何を変えたかったかといえば、過去、事実上の妻を射殺してしまったという事実。果たして、この「変えたかった過去」が事実なのか、また別のターゲットがあったのかは分からないが、この本ではそういうことになっているので、私もそのつもりで読んでみた。誰だって、無かったことにしてしまいたい過去を大なり小なり持っているだろうし、それが実現できる術があるなら、試してみるかも知れない。ただ、これだけ自分にも負担を与える作業であればもっと早くに諦めてしまうのが普通の人間かも知れない。

 そういえば「カットアップ」することで文の相互依存を壊して意味を通らなくすることと「テープ(過去)の書き換え」の繋がりが微妙に意味が違っているような気がするのだけれど、「カットアップ」は単なる効果の一部に過ぎないのだろうか。

 「自由であろうとすればするほど不自由になる」ことと、「過去を消そうと思えば思うほどそれに囚われていく」ことは、似ていなくもない。どちらも、その存在を抹消しようと躍起になることでよりその存在を際だたせてしまう。見ないようにすればするほど、その対象を見てしまう。この辺りは痛いほど感じ取れる。しかしこのことに一生を費やしてしまったバロウズという人は、ひどく不器用な人なのだな、と悲しく思う。

 この本を読み始めたとき、バロウズの本を立ち読みしてみた。が、思っていたよりもすらりと脳に入ってきたので「何だ、案外読みやすいじゃない」と、警戒を解いたのだった。でも、この本を読んでみると分かるけれど、こういった形で読んだら「分かる」のは、当たり前のことなのだ。著者も何度かカットアップした文章を例に出しているが、この手の文章は、面として見たら「分かる」のである。かえって、一語一語読み下そうとすると何がなんだか分からなくなる。バロウズの本を読むことの経済性(これは面白かった)として、カットアップしたことにより説明的な部分が大幅に減り文章が短くなるということを証明しているが、カットアップとは脈絡のない単語をつぎはぎすることで、そこから連想される「イメージ」を寄せ集め、文章の舞台を独自に作り上げる作用をするらしい。だからこそ、彼の小説を読むには彼のあちこちの作品からなる「データベース」が必要になり、読者はそこにヒットしたキーワードから引き出せるイマジネーションを集約させることで小説を読み進めることになる。結局は、彼の小説を読むにはこの「データベースの構築」が必要になり、つまりは素養が無いと、それがある人の読んだものとは別物に近いものを読まされることになるということなのだろう。だから「訳が分からない」となっていく。

 その「データベース」や素養は、たとえば同時代に生きた人たちであれば、一部は持ち合わせたものだったのだろう。だからこそ、現在読む人には訳が分からない。だからこそ、「その時代だけの作品だったのだ」といわれてしまう。これは、いつの文学でもいわれることなのだろう。遅れてやってきた我々は同時代性は持ち合わせていず、それでは読む意味が無いのだろうか、ということにもなるだろうが、今でも(細々とではあるが)読み継がれるということは何か訳があるのだろう。それが、自由を追い求め、結果失敗した彼の生きる姿そのものと著者はいう。

 自由というものを、私たちは考えたことがあるだろうか。生まれながらに与えられているもの、と思っているだろうか。テレビで反論する若者はいう。「だって、自分の身体なんだから何やったって自由じゃん」。果たして、自由とは予め持っているものなのだろうか。持っていたとして、どこにあるものなのだろうか。

 …こうやって自由にものを書けるということはやはり「自由」なのだと思うし、私はこうやって自分の「自由」を使っていることを発見する。著者は言う。「自由」とは溜めていく一方のものではなく、使ってこその「自由」なのだ、と。自由を追い求め、自由を掻き集め、それで飽和状態になってしまったバロウズ。そこに、我々は反面教師を見るべきだろうし、しかし、あくまでも自由を追い求めた彼の影を、憧れの目で見ることは止められない。